それは夕べのこと
僕は御茶ノ水駅から中央線快速列車に乗り、新宿方面に向かっていた。
時間は夜の11時過ぎ。
まだ終電までは時間があるとはいえ、金曜の夜だけに車内に人は多い。
そして新宿に到着すると、一気に乗客が降りていって、車内がガラガラになった。
「お、ラッキー!」と思いながら、ホームのほうを見ると、なんと反対ホームに「中央特快」が止まっているではないか!
僕の家までなら当然、中央特快に乗っていったほうが早く到着する。
僕は急いで快速列車を降りて、反対ホームの中央特快に乗り込んだ。
ちょうどドアの近くが空いていたので、入り口から一番近いところをゲット。
ここは乗客の乗り降りが目の前で行なわれるので面倒なものの、電車が走り出せば背中が寄りかかれるから楽なのだ。
僕は座席の側面に寄りかかりながら、出発を待った。
どうやら、僕がさっき乗っていた快速列車が先に出発し、この中央特快が途中で追い越すことになるらしい。
僕はドアが閉まったら文庫本でも広げようと思って、しばらくは乗り込んでくる乗客を見ていた。
すると僕の目の前に、一組のカップルが現れた。
「ああ・・・来たか・・・」
僕はなぜかタチの悪いカップルに遭遇する率が高いのだ。
きっと普通の人以上に、カップルを恨めしげに見るからかもしれない。
女の方は電車に乗り込まないらしい。お見送りだ。
化粧っ気のない、素朴な感じの女だ。
髪はやや茶色いストレート。着ているものも、そんなにおしゃれな感じではなかった。
顔は縦に長く、お世辞にも「きれい」とは言えない。
男のほうは割りと好青年な感じの男前なので、なんか「もったいないな~。この顔ならもうちょっとかわいい娘をゲットできそうなのに・・・」といらぬことを考えた。
すると男のほうは、女の顔を両手で挟み、ちょっと見えないように手で隠しながら唇にキスをした。
「あ~あ~、やっちゃった・・・」
金曜夜11時過ぎの新宿駅である。
すでに電車に乗り込んでいるたくさんの乗客の前での「じゃあね」の接吻である。
何人かのサラリーマンのお父さん達の”心の舌打ち”が聞こえるやうだ。
当然僕も「けっ」という感じで露骨に嫌な顔をした。
もちろん、カップルにはそんなもの目に入らない。
出発までまだ時間があるらしい。
まだまだ人が乗り込んでくる。
男のほうはどうも、最後に電車に乗り込んで、ドアが閉まる瞬間まで彼女を見ていたいらしく、
後から乗り込んできた乗客に奥に押し込まれそうになって、一度電車を降りた。
そして彼女を引き寄せ、今度は唇を隠さずにキスをした。
彼女のほうは口紅もしてないのか、やや唇がカサカサだ。
俗に言う「乾いたKISS」の静かな音が僕をいらつかせた。
ずいぶん、やりなれた感じのキスだ。
今日のデートの最中、こいつらはどんだけキスをしたのだろう?
おそらく目が合うたびにしておるな。
道を歩いていても、信号待ちでも、洋服選びの最中でも、トイレから戻ってきた後も・・・
一度視線を切って、また目があったらキスしてたな。
で、そのたびに周りの人から「こんなとこでキスしてんじゃねーよ!」と背中に聞こえない罵声を浴びせられてたな。
くっそ~、コイツラの晩飯、「ゴーゴーカレー」だったらおもろいのに。
妙にカレー臭いキスしたりして・・・。
しかしこの女もうまくやりおったな。
男はえてしてキスに弱い。
そんなにきれいな人じゃなくても、キスを迫られたらとりあえず受けてみる。
舌を入れられたらとりあえず応じてみる。
その間、おんなの顔とか、自分の好みとかは一瞬にして吹き飛んでしまう。
翌日、落ち着いて女の顔を見てみると、
「うわ~、なんでこんなやつと・・・失敗した~・・・。遊びってことにしてくんないかな・・・」
なんて思うのだが、またキスを迫られると受けてしまう。
そんなことを繰り返すうちに、その女に堕ちてしまう。
なんだかんだいって、男は好きなときにキスさしてくれる女に弱い。
ディープに応じてくれる女に弱い。
目の前の女は、それで目の前の男を垂らしこんだに違いない。
「プルルルル~、中央特快、ドアが閉まります。これよりのご乗車、危険ですのでお止めください」
男は最後にまたタコのように唇を突き出したキスをして電車に乗り込んだ。
女のほうはそのすぐ前で手を振っている。
1秒、2秒、3秒、4秒、5秒・・・・沈黙が流れる。
が、なかなかドアが閉まらない。
僕も意外に長いので、ちょっと戸惑っている。
10秒11秒12秒・・・・まだドアが閉まらない、かと思ったら一度閉まりかけてまた開く。
どこかのドアで駆け込み乗車があったのかもしれない。
しきり直しだ。
また沈黙が流れる。
僕は「ん~・・・・あと一回くらいキスできるよ、きっと」
カップルもややもどかしげ。
できないことはないが、キスした瞬間、顔をドアに挟まれたら格好悪い。
女は手を振り続けていたが、さすが日本人。
ずっと彼氏の目を見続けるのに耐え切れなくなったのか、右を見て、時計をチラッと見て、また彼氏を見た。
彼氏のほうもずっと彼女の目を見るのに耐え切れなくなったのか、視線を下に向け(おそらく足が車内に入っているかのチェック)、それからドアの上部に当てた手を見、そして、また彼女を見た。
そして愛想笑いの後、ドアが閉まったので、女の方は「バイバイ」と言って、さっきより少し力を入れて手を振った。
あんなに別れを惜んでキスを繰り返していたカップルが、
あの、ドアがなかなか閉まらず、きまずい空気が流れた一瞬
2人とも「早く閉まれ!」と思ってしまった・・・
「ふっ・・・・人間なんてそんなもんさ・・・・」
ほくそ笑む僕がいた・・・・・・
*なお、写真はGoogleの画像からお借りしたもので、本文とは関係ありません