俺よ、男前たれ

おもしろきこともなき世をおもしろく

『永遠の0』ごっこ③

(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。

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僕は横浜にある県庁の生活援護課で古いパイプイスに座っていた。
いまどき珍しい灰色の事務机はところどころ錆びていて、なんだか”昭和の区役所”といった感じだ。
本当にここが神奈川県庁?
これなら地元の市役所のほうがよっぽど立派だ。

聞くところによると神奈川県庁は現在、新しい庁舎を建設中なので福祉総合課はプレハブ事務所に仮住まいなのだそうだ。


実は戦没者の軍歴証明などの業務を行っているのは厚生労働省の援護局というところなのだが、大まかなことは戦没者の地元の市町村役場でも教えてくれる。

僕は地元の市役所の人に祖父が「独立混成第54旅団司令部」に所属していたことを教えてもらっていた。
それをネットで調べたところ、いくつかの情報が得られた。


しかし平民中の平民である祖父の名前が出ているわけもない。
しかもこの独立混成第54旅団は「仙台師団管区」と「宇都宮師団管区」で兵員を集めつつ仮編成でマニラに向かった」と資料には書いてある。

祖父は生まれも育ちも神奈川なので、なんで祖父がここに所属していたのかがわからない。

市役所の人によると「同姓同名ということもあるので、戸籍を取って県庁に問い合わせたらどうか」ということだったので、わざわざ県庁まで来たのだった。


僕はこの田舎の役所のような生活援護課で祖父の戦歴を調べたい旨を述べ、地元で入手した祖父の戸籍謄本と自分の戸籍謄本を手渡した。

おそらく43歳の僕よりもずっと若いであろう県庁職員の女性が対応してくれた。

その女性は「県庁では厚生労働省の援護局から資料を預かり、情報を提供しているが、横浜も空襲で資料の6割を焼失してしまったので、おじい様の資料が残っているかどうかは定かではない」と前置きしつつ、資料を探してくれた。

残念ながら当時の資料は残っていなかった。
県庁には戦後に作られた個票だけが残っていて、簡単な軍歴、遺族年金の記録などが書かれていた。
そこにも「独立混成第54旅団司令部」と書かれていた。
なんで東北の部隊に祖父が所属していたのか疑問は残るが、もう残っている資料にはそれしか書かれていないのだからそこを疑ってもしょうがないだろう。

その日は祖父の戸籍と僕の戸籍・免許も持ってきており親族として確認が取れるので後日コピーを送ってくれるとのことだった。(実際は電話で問い合わせてから送付手続きを取ることが多いらしいが)

これよりさらに詳しいことを知るのは難しい感じだった。

映画『永遠の0』だと主人公である孫がまだ20代で、特攻で亡くなった祖父の当時の部下がいろいろな話を聞かせてくれたのであるが、2017年現在、戦争に行った世代はもう95歳以上
今から祖父のことを知っている戦友を探して証言を聞くのは難しい

そもそも資料によると独立混成第54旅団の8割がフィリピンで戦死したそうだし、残りの2割も生きている保証はない。

祖父はセブの野戦病院で米軍の空襲を受けて亡くなったらしいので、祖父の最後をみた人も当然全滅しているだろう。

祖父が名のある軍人とか少しは位の高い軍人、もしくは特攻隊員だったらそれなりに資料や証言もあったろう

また地元の名士とか、何代も続く老舗の家の出とか、最低でも一族の本家の長男とか大学出とかだったら祖父のことを知っている人も少しはいただろう。

しかし私の家はそうではないのである。

田舎町から引っ張り出された名もなき一兵卒。
陸軍とはいうものの、はっきり言って捨て駒にされるような歩兵だったろう。

今もフィリピンのどこかで眠っている祖父はかろうじて親族の記憶の中にだけ留まっている。


僕の父も今年で78歳。
海外に足を運べるのもあと数年

せっかく僕がフィリピンに赴任するんだから、祖父の亡くなったところに連れて行ってあげたいな。
慰霊碑なんかがあるんなら、花の一つでも手向けてあげたいな。

もうちょっとだけ調べてみるかな。

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