(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。
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その日、僕は新宿にいた。
これまで得た祖父の情報は
これまで得た祖父の情報は
1 祖父は明治42年(1908年)に神奈川県平塚市で生まれた。
2 昭和19年(1944年)3月に教育召集により、近衛歩兵第5連隊に入隊
3 同年6月 独立混成第54旅団司令部に編入、山口県の門司港より出帆
4 同年7月 フィリピンのマニラ着
5 昭和20年(1945年)3月フィリピンのセブ島セブ市で戦死
2 昭和19年(1944年)3月に教育召集により、近衛歩兵第5連隊に入隊
3 同年6月 独立混成第54旅団司令部に編入、山口県の門司港より出帆
4 同年7月 フィリピンのマニラ着
5 昭和20年(1945年)3月フィリピンのセブ島セブ市で戦死
ん~でも、36歳まで軍隊に行かなかったってのも変な話だし
独立混成第54旅団って、インターネットによると東北の部隊らしいし
この旅団って、セブ島を通過してミンダナオ島のザンボアンガってとこまで進んでるんだよな。
だからじいちゃんがセブで戦死ってのはどうもおかしいんだよな。
独立混成第54旅団って、インターネットによると東北の部隊らしいし
この旅団って、セブ島を通過してミンダナオ島のザンボアンガってとこまで進んでるんだよな。
だからじいちゃんがセブで戦死ってのはどうもおかしいんだよな。
ただ祖父の個人情報はほぼほぼ出尽くした感があった。
もうあとは資料館で当時の戦闘の様子を知るくらいだろう。
もうあとは資料館で当時の戦闘の様子を知るくらいだろう。
もっともこの日の夜、僕は自分が全くの無知であったことを改めて思い知らされるのである。
今日の予定は
長い一日になりそうだ。
10時15分 新宿住友ビルに到着
平日の午前とあって、スーツを着たサラリーマンが行きかう街・新宿で
無職のおじさんである僕はかなり場違い。
入社したばかりの穢れなき初々しい新入社員の笑顔がまたまぶしい。
仕事が辛くてもやめちゃダメだぞ。
新宿の大手企業に勤めるって、本当にすごいことなんだから。
無職のおじさんである僕はかなり場違い。
入社したばかりの穢れなき初々しい新入社員の笑顔がまたまぶしい。
仕事が辛くてもやめちゃダメだぞ。
新宿の大手企業に勤めるって、本当にすごいことなんだから。
新宿住友ビルの48階はレストランが1つと、今回の目的地である平和祈念展示資料室だけがあり、ひっそりしている。
中に入るとじいさん・ばあさんのグループが資料館ガイドの説明を受けていた。
僕も最初はこのグループについてガイドさんの説明を受けていたのだが、この日は他にも訪問先があるので、自分でさっと一回りすることにした。
僕も最初はこのグループについてガイドさんの説明を受けていたのだが、この日は他にも訪問先があるので、自分でさっと一回りすることにした。
この資料館は「兵士」「戦後強制抑留」「海外からの引き上げ」の3つをテーマに展示しているのだが、マネキンを使って当時の様子を再現したジオラマがリアリティがあって怖かった。
またこの日はちょうどシベリア抑留についての特別展示をしていて、かなり太った資料館ガイドの男性が「シベリア抑留中は1カケラの黒パンと水のようなスープのみといったひもじい思いを…」と熱弁していた。
(この人の説明ではあんまり”ひもじさ”が伝わらないような・・・)
僕は図書閲覧コーナーに朝日新聞の便覧があるのを見つけ、祖父ちゃんがなくなった時の記事を探してみた。
で、祖父ちゃんが亡くなった昭和20年3月29日のフィリピンのことが書いてないかなと目を皿のようにして探してみると、4月4日の記事に「敵セブに侵入」というリードを見つけた。
まずは2階の常設展示を見学。徴兵検査から入営、出征、そして戦場での受傷・救護、帰還後の苦労などがわかるように順に展示されていた。
中でも野戦病院のジオラマはかなり迫力があった。
病院といっても名ばかりで、山のほら穴だ。
ここで簡単な治療をしてもらえれば御の字。
手遅れの兵士もいれば、薬も治療道具もなく何もしてもらえなかった者も多かったらしい。
病院といっても名ばかりで、山のほら穴だ。
ここで簡単な治療をしてもらえれば御の字。
手遅れの兵士もいれば、薬も治療道具もなく何もしてもらえなかった者も多かったらしい。
しょうけい館でも祖父ちゃんや、祖父ちゃんが所属していた旅団に関する情報は得られず、僕は最後の目的地・靖国神社に向うことにした。
14:00 しょうけい館から歩いて10分ほどで靖国神社に到着
第一鳥居のでかさにびっくり!
大村益次郎の銅像にこれまたびっくり!
第二鳥居の下で辞儀したり、大手水舎で手や口を洗ったり、日本人なのに作法がわからずドギマギ
第一鳥居のでかさにびっくり!
大村益次郎の銅像にこれまたびっくり!
第二鳥居の下で辞儀したり、大手水舎で手や口を洗ったり、日本人なのに作法がわからずドギマギ
そしてこれは本当に偶然なのだが、神門をくぐったところで急に風が吹き、靖国の桜がブワーっと舞い散ったのだ。
これにはその日たくさん来ていた外国人観光客も感嘆の声を上げた。
まさかと思うけど、やはり僕には祖父ちゃんが「よく来たな」と迎えてくれたような気がした。
時間があればゆっくり昇殿参拝をしたり、遊就館で特攻隊の手紙を読んだりしたかったのだが、今日の目的はあくまで祖父ちゃんの資料探し。
僕は本殿横にある靖国会館1階の靖国偕行文庫に向かった。
ここは「靖国神社に鎮まる英霊の戦歿された当時の調査資料を整備し、その御遺徳を顕彰するとともに、後世の研究に資することを目的とした図書館」であり「戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料」があるという。
ここは「靖国神社に鎮まる英霊の戦歿された当時の調査資料を整備し、その御遺徳を顕彰するとともに、後世の研究に資することを目的とした図書館」であり「戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料」があるという。
僕は受付の方に祖父ちゃんのことを調べたい旨を告げ、神奈川県庁でもらった戦没者原票を見せると、その手の事情に一番詳しい年配の男性ががんばって色々な資料を調べてくれ、僕に説明してくれた。
その人によると
・祖父が所属していた独立混成第54旅団はマニラがあるルソン島からセブ島、そしてミンダナオ島に進み昭和20年3月に敗走している
・祖父がセブ島のセブ市で戦死しているのは、作戦のためセブ島に残ったか、病気や怪我で進軍できなかったためでないか
・祖父が戦死する数日前にアメリカ軍がセブ島に上陸。日本軍はセブ市郊外の山に基地を作っていたが祖父がなくなった数日後には制圧されたという記録がある。祖父が亡くなったのはその戦闘だろう
・祖父が所属していた独立混成第54旅団はマニラがあるルソン島からセブ島、そしてミンダナオ島に進み昭和20年3月に敗走している
・祖父がセブ島のセブ市で戦死しているのは、作戦のためセブ島に残ったか、病気や怪我で進軍できなかったためでないか
・祖父が戦死する数日前にアメリカ軍がセブ島に上陸。日本軍はセブ市郊外の山に基地を作っていたが祖父がなくなった数日後には制圧されたという記録がある。祖父が亡くなったのはその戦闘だろう
ということを話してくれた。そして不意に「おじい様のご職業は?」と僕に聞いてきた。
正直、父親からも聞いてなかったのだが、商売をやっていたというのも聞かないし、田舎の三男坊だし、まあ農家だろうと思って「たぶん農家だと思います」と答えると
「う~ん、でもいきなり司令部に入っているし、何か特殊技能があったと思うんですよ。普通は歩兵ですからね」
という。なんだろう?趣味で無線でもやってたか?
当時の朝日新聞に書いてあった米軍のセブ上陸の日付と、祖父ちゃんの戦史の日付・場所も一致しているので、ほぼほぼ間違いはなかろう。
祖父ちゃんはセブ島のセブ市(おそらく実際はセブ市郊外の山中)ということころまでわかっているだけでも幸運らしい。
だから父を連れて行くならセブ市に3つほどある慰霊碑に連れて行くのがよかろう。
それにしても祖父ちゃんって、何の仕事してたんだろうね?
召集されて3か月の訓練だけで司令部に配属されて一等兵だから、そんなに悪くないんじゃない?
その夜、僕は両親に今日わかったことを話した。
そして祖父ちゃんの職業を聞いて、僕はあまりの衝撃と自分の無知に言葉を失ってしまった。
俺、今まで何してたんだろう?
学校では何も教わっていなかったし、両親にも祖母にも教わっていなかった。
本来なら夏休みの自由研究でやっとかなければならないことを
43歳になって初めて知ることになるのであった。
43歳になって初めて知ることになるのであった。
つづく。