俺よ、男前たれ

おもしろきこともなき世をおもしろく

『永遠の0』ごっこ⑤

(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。

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靖国神社にある靖国偕行文庫という資料館の司書さんは

「おじい様は何か特殊技能があったんじゃないですか。36歳で初めて招集されていきなり司令部に所属するなんて珍しい」

と僕に語った。

僕は祖父ちゃんのことを何も知らない。
(というか、父親が5歳の時に祖父ちゃんは亡くなったのだ。父だってほとんど祖父ちゃんのことは知らないらしい。)
僕の家系は普通の平民だから、祖父ちゃんも農家だろうと思っていた。
その祖父ちゃんに特殊技能なんてあるわけないよな。

しかしこれは僕の大きな勘違いだった。
祖父ちゃんが持っていた特殊技能、それは僕が育った神奈川県平塚市という町に大きな関係があった。


ちなみに、このブログをたまたま読んでくれたみなさんは「神奈川県平塚市」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか?

僕は平塚市で生まれ育ったが、僕が思い浮かぶ地元・平塚は

1 東海道の宿場町
2 日本三大七夕祭りの一つ、平塚七夕祭り →もっとも仙台の七夕のほうが有名だが
3 湘南ベルマーレ(旧 ベルマーレ平塚)→あの中田英寿も在籍
4 湘南平 →恋人が南京錠を金網につけると結ばれるという伝説も
5 ビーチバレー →河合俊一が平塚をビーチバレーの聖地に
6 箱根駅伝 →お正月に中継してもらえる
7 ヤクザ →駅の周りに風俗店多数

くらいか。

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しかし祖父が産まれ育った明治から大正、昭和にかけて、平塚は軍需産業の街だった。

1905年(明治38年)に日本政府とイギリスのアームストロング社他3社によって日本爆発物製造株式会社平塚製造所が作られ、1919年(大正8年)には大日本帝国海軍が全施設を買収して「海軍火薬廠」として開庁した。

恥ずかしながら、そんな地元・平塚の歴史を僕は全く知らなかったのだ。

小学校でも中学校でも高校でも先生は教えてくれなかった。

夏休みの自由研究で調べた奴もいなかった(と思う)。

祖母も父もそんな話をしれくれたことはなかった。

だから僕の中で「平塚は東海道の宿場町」とか「七夕祭りが有名」なんて呑気な知識しかなかったのだ。

卒業旅行で広島の原爆ドームを観に行ったり、「フジテレビがあるお台場は昔、砲台があったからお台場って言うんだぜ!」なんて偉そうに他人に説明したりしている場合じゃなかったのだ。

僕の地元は太平洋戦争の日本海軍の火薬廠があった町で、市民は直接・間接的に軍需産業に携わっていたのだ。

しかもネットで調べてみると、いつもバスに乗りながらなんとなく見ていた石碑や塔、工場や病院がすべて当時の遺構として残されていたものであり、僕は小さいころからそれを見ていながら全く興味関心を示していなかったのだ。

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「親父さんは火薬廠に勤めていたよ」

父は熱い緑茶をすすりながら僕に語った。

(というか、僕が祖父ちゃんのことを調べているの知ってるんだから先に教えておいてくれたら良かったのに。)


これでなんとなく疑問に思っていたいくつかのことがわかった。

祖父が36歳まで軍人として召集されなかったのはすでに海軍の工場で働いていたからだ。

資料によると戦争の末期は材料がなくて工場で芋を作っていたらしい。そんな状況だったから36にもなって召集されたのだ。

いきなり「司令部」に配置されたのも火薬廠で技師として働いていたからだろうし、東北の部隊に配属になったのも特殊技能を買われてのことだろう。

最後は所属部隊を離れてセブ島に残ったのは作戦だったのか病気や怪我だったのかは不明だが、ミンダナオ島まで進んだ部隊とほぼ同時期に撃退されているので、どちらにせよ死は免れなかったろう。


ちなみに平塚市はその後の昭和20年7月に東京大空襲を超える44万7716本の焼夷弾を落とされ、焼け野原になったそうだ。

戦後しばらくは「平塚が軍需産業の町だったから空襲に遭った」と考えられていたが、戦後50年たってアメリカ軍の資料が公開されたところによると

終戦前、平塚の海軍火薬廠で何も作られていなかったことはアメリカはすでに知っていた。
・あえて焼き野原にしたのは平塚が本土決戦の上陸地に予定されていたから
・生き残った市民はサリンで抹殺予定だった

とのこと。

・・・終戦がもう少し遅かったら・・・平塚も広島・長崎と並んで歴史に名を刻んでたな。
もちろん刻まれなくてよかったけど・・・

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本家に集結した伯父、父、叔父、叔母は僕の説明を聞くと、なぜかみなほっとしたような顔をした。

叔母さんは「ありがとね、いろいろ調べてくれて」と僕に感謝の言葉を述べ

叔父さんは「すごいな~、ちゃんと記録が残ってるんだな」と感心した。


僕は祖父を偲んで涙する姿や「鬼畜米英!」と怒りに震える反応があるかな、と思っていたが
みな一様に穏やかだった。

なぜこんなに平静でいられるのだろうか?

さすがにみな70を超えているので、若い頃より穏やかになったのだろうか。


すると叔母さんは「私たちじゃ調べられないからね」と僕に語った。

そうか、そうだろうな・・・

伯父さんは祖父ちゃんが死んだ時、9歳だった。そして13歳の時、家督をついて家長になったという。
長男としてがむしゃらに家を守ってきたのは想像に固くない。

父は祖父ちゃんが死んだ時、5歳だった。そして中学を卒業するとすぐに大工の丁稚をしたり農家を手伝ったりしながら家計を助けた。

みな祖父ちゃんの死を悲しむ余裕はなかった。
戦後の復興から立ち上がるために、がむしゃらに生きるしかなかった。

祖父ちゃんが戦死したことが家族に告げられたのは昭和22年6月。
祖父ちゃんがなくなって2年が経っていた。

小さな桐の箱に土が少し入っていて、祖父ちゃんが戦死したセブ島の土だと告げられたそうな。

でも祖父ちゃんが当時、どこの部隊に属していたのか、どんな戦況にあったのかを知るすべはなかったらしい。

今はインターネットでいくらでも調べられるし、ネット上に情報が載っていなくても、調べ方を調べる方法があるのだが、おじさん・おばさんたちは使い方を知らない。

今回、たまたま僕がフィリピン赴任になって、おじいちゃんの戦没地だと知って調べたからわかったことがたくさんあったらしい。

43歳にしてやっと親孝行ができたのかもしれない。



おしゃべり好きで陽気な伯父さんは、最後に

「よし、みんなでセブに行くべよ。俺が金出してやんからよ!」

と壮大な旅行の計画を立てた。

70歳以上の兄弟がフィリピンのセブ島旅行とは・・・

その時は僕も案内してやらねばなるまい。

いつになるかはわからないが、おじさんたちが来た時に僕の『永遠の0ごっこも終わるだろう。

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