長渕剛をどう仕分けしよう?
ずっと悩んでいたが、とりあえず松岡修造や照英と同じ、”熱血・まっすぐ君”の仲間に入れることにした。
きっかけは2013年の3月のことだった。
ファンが見守る中、30キロの大筆を振りあげ、気合をともにキャンパスに叩きつける。
関係者は墨が飛び散らないように、水上アトラクションばりにビニールシートで防御
取り囲むファンは長渕剛を盛り上げんと、土俵入りの如く「ヨイショー!」と声をかける。
長渕剛とその固定ファンが作り出す独特の世界は、なかなか興味深いものだった。
テレビでその腕前を披露していたが、すぐそばにいた須藤の書の先生が
「基本ができていないのに、応用しすぎ」みたいなコメントをしていて、須藤元気を苦笑させていた。
気持ちはわかる。
小学生じゃあるまいし、大人になってまで楷書で「夢」とか「お正月」なんて言葉は書きたくない。
そんなの書道じゃなくて”お習字”だ。
大人なんだから、いきなり行書・草書でウネウネ書きたい。
読めないくらい形を崩して書きたい。
でっかい紙に、でっかい筆で「オリャー!」なんていいながら書きたい。
あいだみつを、みたいに「くるしいことだってあるさ にんげんだもの」なんて味のある言葉を書き連ねたい。
が、それをやると、やはりその道のベテランに笑われるのである。
「アホが形ばっかりマネておるわ」
んで、長渕剛である。
正直、長渕剛の作品もビミョ~なのである。
絵も書も詩も・・・「まず形から入ったな・・・」という感じなのだ。
基本を習得せず、いきなり応用。
デッサンを習わず、いきなりピカソ
が、”あの”長渕剛である。
まさかお習字教室から始めるわけにはいかないのである。
小学生に並んで正座して、低いテーブルに半紙を置いて文鎮で止めてって・・・やってられないのである。
やっぱり、どでかいキャンパスに、どでかい字で、どでかい筆を使って書かなきゃ・・・らしくない。
朱色の墨で先生に直されようものなら、ションベンを引っかけてやらねば、長渕剛のこれまでの積み重ねが無になってしまう。
だから、長渕剛の場合はしょうがないのである・・・
僕が小学生の時、長渕剛は髪が長いフォークシンガーだった。
ドラマで家庭教師役かなんかをやっていた。
ギター片手に、「GOOD-BYE青春」とかを歌番組で歌っていたな。
名曲「乾杯」もアレンジしたものを歌っていたな。
ドラマ「とんぼ」ではチンピラ役を好演。
今の印象を決定づけた。
あの当時、尾崎豊なんかもいたけど、「反社会」的なものがカッコいいとされた時代だった。
その後、長渕剛は本当に反社会的なことばかりを繰り返していたように思う(「国生さゆりとの不倫騒動」「大麻所持」「歌詞盗用騒動」「桑田圭佑とのいざこざ」「NHKとの対立」など)が、依然 僕にとって気になる存在ではあった。
長渕剛が書をやったり詩を書いたり絵を描いたりするようになったはそれからである。
あの人なりに表現したいことがたくさんあったんだと思う。
音楽だけでは伝えきれない思いがあったのだと思う。
表現方法はあればあるほどいい。
音楽でも、演技でも、ダンスでも絵でも書でも・・・
長渕剛はたぶんいろいろ試してみて、「詩画」というものにたどり着いたんだと思う。
周りから「基礎がなっていない」「おおげさ」「へたくそ」と言われても
自分がやりたい表現方法を突き進んだ結果が今の形になった。
今の長渕剛には迷いがない。
周りの評価など全く意に介さない。
自分が信じる道を歩み、表現する。
もしかしたら岡本太郎のような、本物の芸術家として認められ、後世に伝えられる存在になるかもしれない。
彼の亡き後に・・・
で、最初の問題に戻るのだが、
ネプチューン原田が「最近、便秘がちなんです」と相談すれば足上げ腹筋を伝授して解決。
どんなにふざけた質問がこようと、怒るでもなく、真剣に全力で答える長渕剛。
それをしゃべくりメンバーが笑いに変えようとすることすら許さない。
本当に生真面目なのだ。
「子供たちが学校を卒業するときに、俺みたいなもんに親をやらせてくれてありがとうって思った」と真面目に答えていたのを思い出した。
やっぱり長渕剛は熱い人なのだ。
正直「やくざな」「反社会的な」「武骨」なイメージが長くついていたので、なかなか気づかなかったのだが、少なくとも現時点での長渕剛は
あまりに真っ直ぐで、あまりにピュア。
一度語り出すと、熱くなって、周りがくすくす笑い出そうとお構いなしに熱血トークを続けてしまう。
はっきり言って長渕剛は天然ちゃん
なのだ。
松岡修造とか、照英とかと同じ、熱血系バカ
だからピュアな男の心を鷲掴み
これが長渕剛2013