それは先週末のこと。単身赴任中の僕は朝からお米を炊いて納豆とハムエッグ、インスタントみそ汁の朝食を食べていたのだが、ご飯が茶碗一杯分余ってしまった。それで「おにぎりでも作ってみっか」と思い、2~30年ぶりにおにぎりを作ってみたのである。三角おにぎりを目指したものの、角がなく、だいぶ厚みと丸みのある塩結びができてしまったが、とりあえずラップをして置いておいた。そしてそれをお昼にカップラーメンとともに食べたのであるが、これがすこぶる旨かったのである。あれ?そういえばこの20年くらい、おにぎりを食べて”おいしい!”と思ったことがない。なんで俺は自分で作った不格好なおにぎりを”うまい!”と感じたのだろう?
今やコンビニのおにぎりも侮れなくなってきている。お米は国産のコシヒカリとかササニシキ、梅干しは紀州の南高梅とか、大ぶりの焼鮭ハラミとか。僕はいつも110円のツナマヨ専門なのでそういうのはあまり食べたことはないんだけど、コンビニおにぎりはもはやコンビニの主力商品と言っても過言ではない。
僕は今年50歳になるのだが、80年代のコンビニおにぎりはまあひどいもんだった。冷たくてカピカピで固い米は食べると哀しい気持ちにさせた。その後「お母さんが握ってくれたような~」を目指して、コンビニ各社が知恵と技術を駆使しておにぎり製造マシンを作っていたが、90年代になっても00年代になっても「母親が作るのとは違うなぁ」というのが僕の感想だった。我が家のおにぎりは正直、市販のものより米がだいぶ柔かった。それを母親がかなり力を入れて握っていた。が、ラップに包んで置いておくと昼頃には米にシーチキンの脂が沁みて滅法旨かった記憶がある。おそらく僕の中でおにぎりの正解は子どもの頃に母親が作ってくれたものなのだと思う。
もちろんコンビニおにぎりは美味しくなったし、一人暮らしを始めてからはよく食べた。コンビニのおにぎりはコメの1粒1粒がちゃんと立っていて、おにぎりの角もしっかり立っていた。厚さも均一で整っている。が、これが僕にとって「家庭の味ではない」と思う一番の原因だった。おにぎりの角はなんか冷たい。厚さが揃っているのもなんか嫌だ。一般的には食べやすいし海苔も巻きやすいんだろうけど、なんかよそよそしいというか、気取った感じがする。まさに型どおりで個性というか人間味を感じないのだ。
その後もコンビニ各社は工夫と改良を続けた。お米は粒がつぶれないように絶妙な水加減・熱加減でふっくら炊いてあるし、材料も精選し、定番から変わり種まで種類は一気に増えた。海苔を加工して端切れをよくしたり包装紙を開けやすく工夫したりと、おにぎりは進化し続け、もはや日本のおにぎりのスタンダードになるつつある。
コンビニももはや「お母さんが作ってくれたような~」を目指さなくなっているように思う。もう自分たちのほうがスタンダードだという自覚があるのだろう。ちなみに僕はコンビニおにぎりの中でも赤飯おにぎりだけは”アリ”だと思っていて、あれは形が丸いのと、母親のレパートリーの中にないので元々”よそで食べるもの”と割り切っていたからだと思う。
その後、僕は国際結婚をし、子供もできた。で妻は僕には朝食用のおにぎりを、息子にはお弁当用におにぎりを作ってくれるのだが、もちろん妻はおにぎりを握って育っていないので100均グッズなどを駆使しておにぎりを作っている。僕用のおにぎりは三角おにぎりの形のシリコン製の型を使って成型し、これまた100均のおにぎりフィルムで巻いて渡してくれる。息子用には丸型、俵型、三角形に成型できる道具で作ってのり玉などのフリカケをまとわせて弁当箱に詰める。もちろんそれに不満はない。息子にとっては母親が作ってくれるおにぎりがそれなのだがら、そのおにぎりが正解になるのだ。
が、僕は違う。僕の母は柔いご飯で力強くギュウギュウに握っていたのだ。形も角のない三角で、厚さも均一ではなく、丸みがあったように思う。で力強く握っていたように見えたにもかかわらず、かじると意外にほろりとお米が崩れ、それを麦茶かなんかで一気に喉の奥に流し込んだ時の爽快感といったらなかった。
で、先週、僕が20~30年ぶりに握ったおにぎりはまさにこれで、形は不格好ながら米が口の中にいっぱいになる感覚、ちゃんと握れてない感覚、一口かじるとボロボロほぐれて急いで口の中に詰め込むんでインスタントラーメンの汁で流し込む感覚が素敵だった。
そういえば以前テレビで「おにぎり専門店ではごはんはほとんど握らず、海苔でふんわりまとめる程度」と言っていたな。そんなお店に行ったことはないんだけど、確かに旨そうだったな。東京の人は飲みに行った帰りにああいう店に寄ったりするんだろうな。
ま、俺にはそんなところへ行く金も時間も友達もいないから、おとなしく不格好なおにぎりでも作って食べるしかないんだよな。
結論:育ちの悪い奴は育ちの悪いおにぎりを好む。