三沢光晴の突然の死を知ったとき、ぼくはあることを思い出していた。
それはちょうど10年前のこと
以下の記事は、僕が10年前に書いた手書きのノートから写したものです。
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この悲しみをなんと例えたらいいのだろうか。
悲しみ
悲しみと言っても、涙が溢れるようなものではなく、
「寂しさ」だけで片付けられるものでもない。
学校を卒業したときとも、友達と別れたときとも違う
胸にぽっかりと穴が開いたような、なんとも言えない気持ちだ。
「ジャイアント馬場死去」
私はそれを、ベトナムで知った。
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読売新聞の関連記事に一通り目を通し、夕焼けに染まるハノイの町並みをボーっと見渡しながら
しばらくの間、呆然としていた。
本当なんだろうか?
日本にいたら、新聞、雑誌、テレビ、ネット、あらゆるメディアで確認できただろうに。
僕は遠いハノイにいることを今ほど恨んだことはない。
しかし、それでよかったかもしれないとも思っている。
馬場さんの死を直視しないまま、現実から目を背けたまま、忘れることができるかもしれないからだ。
思えば、僕がジャイアント馬場に感心を抱き始めたのは大学1年生のことだった。
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少年時代、僕は自他共に認めるプロレスファンだった。
学校では同級生を相手によくプロレスごっこ。
家に帰っても弟とするのはプロレスごっこ。
当時は金曜の夜8時にプロレスをやっていたので、晩飯を食べながら家族と一緒にプロレスを見たものだ。(もっとも、夢中になって見ていたのはぼくだけだったが)
その後、ゴールデンタイムからプロレス放送が消え、僕のプロレスへの関心も次第にうせていった。
そして大学でひとり暮らしを始めた僕が出会ったのが、真夜中のプロレス放送だった。
もう何年もプロレスから足を洗っていたので、知らない選手がたくさんいた。
しかし、何度も見ているうちに、昔の熱い血がぐつぐつと煮えたぎってくるのがわかった。
僕はまたプロレスにはまった。
そしてその時に初めて見たのが「戦うジャイアント馬場」だった。
ジャイアント馬場は子どもの頃から知っていた。
当時、ジャイアント馬場は子どもにとって笑いの対象でしかなかった。
そして大学一年のとき見た馬場は・・・・・・・・
やっぱりのろかった・・・・・・・。
僕は友人と一緒にテレビの前で声援を送った。
「がんばれ!おじいちゃん!!」
「もっと速く動け!!」
私達の声援の甲斐あって、馬場のチームは見事勝利した。
なんだが自分のことのように嬉しかった。
そしてこんなに底抜けに楽しかった時間は久しぶりだった。
また、不思議なことに、会場に来ていた客も、皆同じ表情をしていた。
試合を見た人全員が、温かい気持ちになり、心から満足できたのであろう。
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僕は馬場さんが大好きになった。
そしてプロレス関係の雑誌、本を読むうちに、
「人間・馬場正平」にどんどん惹かれていった。
そしていつしか僕は、「こんな人間に私はなりたい」と思うようになった。
プロレスというのは実に閉鎖的な社会である。
嫌いな人はとことん嫌いだし
好きな人はとことん好きだ。
僕は大好き派で、時々、嫌い派の人と口論になることもあるが
嫌い派が放つ「インチキ論」「八百長論」を、いまだかつて一度も論破できたためしがない。
そんな時は黙って一人でプロレスを見る。
そしてまた、明日を生き抜くエネルギーをもらう。
だが、僕はあえてそれを「家族的」と肯定している。
どれをとっても申し分ない人だ。
プロレス界では人間国宝である。
その馬場さんが晩年は前座でお笑いプロレスをやっていた。
若手は、他のとうを過ぎたレスラーと、コントのようなプロレスを見せていた。
だがそれを「堕ちぶれた」という全日ファンはいなかった。
なぜなら、馬場さんは輝いていたからだ。
馬場さんほどのレスラーが、前座で戦うには、何かを捨てなければできないことだ。
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馬場さんはファンに生かされていることを知っていたのだ。
自分が試合に出ることで、お客さんが喜んでくれる。
そのお客さんのあたたかい声援で、自分もまた頑張れるのだと悟ったのだ。
試合前、馬場さんはいつも会場のプロレスグッズ売り場に座っていた。
馬場さんは全日本プロレスの社長でもあるのにだ。
社長自ら現場に立ち、ファンにその姿を見せ、触れ合っていた・・・
リングを離れた馬場さんは非常に寡黙な人であったという。
そして意外なことに、人に見られることを非情に嫌がっていたらしい。
いつも胸の奥深く、思いをめぐらしているようで、「近寄り難い」という人さえいた。
一方、馬場さんはだれからも好かれる人でもあった。
例えば故逸見政孝さんとのエピソードなど、心温まる話を何度も耳にしてきた。
馬場さんを嫌いになれる人なんて世の中にいるのだろうか。
馬場さんは死ぬ2ヶ月前までリングに立っていた。
享年61歳
僕は今も「人間・ジャイアント馬場」に憧れている。
あんな人に僕はなりたいと、今でも思っている。
さよなら、馬場さん。さようなら。
夢と感動をありがとう。
―♪―
大きなノッポの古時計 おじいさんの時計
100年いつも 動いていた ご自慢の時計さ
おじいさんの生まれた朝に 買ってきた時計さ
今は、もう、動かない その時計
![イメージ 5](https://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/Y/Yamazy2019/20191011/20191011224551.jpg)