夜、風呂から上がると、台所にいる妻が松田優作ばりの雄たけびをあげた。
髪の毛を拭きながら台所に向かうと、妻の顔が超不機嫌になっている。
どうした?俺は何も悪いことはしていないぞ?
浮気もしていないし、お弁当も残さず食べた。脱いだ靴下やパンツはちゃんと裏返しになってないか確認したし、便座も下げた。
が、妻の顔はものすごく怒っているのだ。
恐る恐る「どうしたの?」と聞くと、妻は一言
「サミットにクレーム入れて・・・」
なんのこっちゃわからない。
よくよく話を聞いてみた。
妻は夕方、近所のスーパー『サミット』で、じゃがいも、にんじん、玉ねぎがセットになった”カレー用野菜セット”を買ったらしい。
で、今日の夕食のカレーを作ろうと、じゃがいもを切ったところ、3個のうち1つが腐っていたのだという。
で、なんとか使えぬものかといろいろ削ってみたが、ジャガイモのど真ん中が広範囲に腐っていて、使えない。
で、サミットにクレームを入れろというのだ。
僕は反射的に「え~~~~嫌だよぉ~~~」とごねた。
自慢じゃないが、僕は今までお店にクレームをつけたことはほとんどない。
飯を食いに行って、注文が間違えていても優しく指摘するだけだし、まずくても文句は言わない。
毛が1本入ってようが愛嬌だと思って許すし、店員の態度が悪くても心の中で「死ね、ばーか」と悪態をつくだけだ。
直接横柄な態度を見せることもなければ、あとで電話でクレームを入れることもない。
ネットの掲示板に書き込むこともなければ、周りに「あの店はダメだ」なんていいふらすこともない。
平和主義の日本人らしく、ことを荒立てることを好まず、多少のことは我慢してやりすごすのが常だ。
最近ではモンスタークレーマーみないなのも増えているが、僕はそういうのが一番嫌い。
日本は「お客様は神様」の精神が根付いているので、クレームに対して徹底的に低姿勢だ。
そこにつけこんで、横柄にクレームを入れるクレーマーなんて、人間のクズだとさえ思っている。
が、韓国人の妻は違う。
「自分はお金を払って買ったのだ。そのじゃがいもが腐って使えないというのは完全に店側の過失。こちらが損をするのはおかしい」
「こういうことはしっかり言わないと、同じ過ちを繰り返すことになる。それはサミットにとっても良くないことだ」
と言う。
僕はなんとかクレームを入れないで済まないかと、いろいろごねてみた。
僕「あの・・・買うときに、腐ってないかどうか、確かめた?」
妻「そんなものなんで確かめる必要があるの?腐ってるものを売ってるのが間違いじゃない?」
僕「そ、そうね・・・。あ、でも、『取り替えますから、レシートを持ってください』って言われたらどうする?」
妻「あなた、お願い。」
僕「え?僕、お風呂入っちゃったし・・・」
妻「また入ればいいじゃない」
僕「いや、でも、どういう顔で取りにいったらいいかわかんないし・・・」
妻「堂々としていればいいじゃない」
僕「あの、俺は別にじゃがいもが少なくても・・・」
妻「あたしはじゃがいもが大好きなの!」
僕「でも・・・もうカレーも完成してるし・・・」
妻「そういう問題じゃない!」
僕「・・・・自分で電話するというのは?」
妻「あたしが電話してもいいけど、向こうから何か言われてもあたしわからないよ。どうするの?」
僕「・・・・そうね・・・」
で、結局僕が電話をすることになった。
台所では妻がしっかり聞き耳を立てている。
電話が何度かコールをする。
普通なら3回も鳴らないうちに出るものだが、なかなか電話を取らない。
う~む・・・事務所に誰もいないのかな?
そう思っていると、7回目にやっと電話が出た。
電話の向こうではガヤガヤ声が聞こえる。
どうやら、スーパー内のサービスカウンターの中の電話につながったようだ。
僕はなるべく冷静に
「あの、今日、そちらでカレー用の野菜セットを買ったんですけど、その中のじゃがいもが腐ってたんですよね・・・」
すると電話の向こうのお姉ちゃんは
「それは大変失礼いたしました。すぐに担当のものに変わります」
と言って電話を置いた。
え?変わるの??
担当の者というのは、クレーム処理係りだろうか?青果担当だろうか?店長だろうか?
なんか嫌だな。ものすごい偉い人とか、慣れた感じのクレーム処理係りだったらどうしよう・・・。
で、僕はどんな感じで話したらいいのだろうか。
やはり、クレーマーらしく
「ちょっと!おたくは客になんてものを売りつけるんだ!これで子供がおなかを壊しでもしたらどう責任を取ってくれるんだ!」
と強気に攻めたほうがいいのだろうか。(うちは子供いないけど)
それとも、僕はモンスタークレーマーじゃないということを示すために
「いや、お忙しいところすみません。大した問題じゃないんですけどね、そちらで買ったじゃがいもの中にちょっとだけ腐ってたものが混じっていたものですからね。あの、お教えしておいたほうがよろしいかと思いましてね・・・」
ってな感じで下手に出たほうがいいのだろうか。でもそれもおかしいな。
どちらにしても、台所の妻がこちらを見下ろしながら軽蔑のまなざしを向けるような気がするのだが。
すると電話口には副店長を名乗る男が出てきた。
僕はなるべく声を低く、冷静にゆっくりと、しかし内心ビビりながら状況をもう一度説明した。
すると副店長は
「大変申し訳ございません。あの、よろしければ今からすぐ新しいものをお届けに伺いますが・・・」
などという。
僕はちょっとびっくりして反射的に「いえいえ、そこまでしていただかなくても!」と言いそうになったが、それではあまりにも卑屈なので、ぐっとこらえて
「あ、そう・・・ですか・・・・じゃあ、お願いします」
と答えた。
先方に住所と名前、電話番号を伝えると「30分以内には伺います」という。
電話を切った後、急いで「ちょ、ちょ、ちょっと!新しいじゃがいも届けにくるって!あの!腐ったやつは?捨ててない?ちゃんと証拠品を提示しないと!」と妻に告げた。
すると妻は「え?本当に?届けに来るの?」と驚いていた。
妻の国ではクレームを入れてもわざわざ届けてくれるなんてことはないらしい。
また、妻は相手がすみませんの一言を言えば収めるつもりでいたそうな。
妻は急いで三角コーナーに捨てた腐ったじゃがいもを拾い集めた。
そして30分後、サミットの人は本当に届けにやってきて、うちのブザーを鳴らした。
僕は「ど、ど、どうしよう?ねえ、代わりに出てよ!」と妻にお願いをすると、妻は「やれやれ」という感じで立ち上がり、急に甲高い声で「はぁ~い!!」と返事をしてドアを開けた。
サミットの人は大ぶりのじゃがいも4つが入った袋を携えてやってきた。
もともと腐っていたのは小ぶりのじゃがいも1個で、それも伝えていたのだが、お詫びのしるしに多めに持ってきたらしい。
僕はテレビの音量を下げ、居間から妻とサミットの人の会話に聞き耳を立てていた。
妻がドタドタ走りながら台所にある腐ったじゃがいもを取って渡すと、サミットの人は
「あ~確かに。すみません。ときどきあるんですよ。中身が腐っているとどうしてもチェックできなくて」
みたいなことを言った。何度も何度も頭を下げるサミットさんに
妻はすっかり機嫌がよくなって「すみません、わざわざ」なんてお礼を言っていたが、
サミットの人は最後にちょっと声を抑えて妻にこう告げた。
「あの…ご主人、お怒りかと思いますが、うまく伝えておいていただけますか? 」
なあ、サミットさんよ・・・
なぜか一人だけ印象を悪くしている小心者の僕であった。
ま、サミットさん、ご苦労様でした。
サービス対応、文句なしっす!