俺よ、男前たれ

おもしろきこともなき世をおもしろく

眉村ちあきと即興ソング

眉村ちあき、というシンガーソングライター兼アイドル兼社長の子がいる。
僕が彼女のことを初めて知ったのは2018年6月と9月放送の『ゴットタン』(テレビ東京系)だ。
6月の放送で「どんなテーマでも即興で名曲が作れる」ということで、”ゲロ”をテーマに曲を作っていたのだが、その時はこれといってすごいとは思わなかった。
これまで同じような特技を披露していたアーティストを何人か知っていたので、その時は「アイドル上がりにしては自分で曲が作れるなんて、ちゃんとしてるな」と思ったくらいだ。
それが9月の放送を観た後、僕の評価は急変した。
眉村ちあきがスナックのママという設定で悩みを打ち明けにきた芸人さんたちを即興ソングで励ますという放送だった。
”チャラ男”キャラで売り出したかったのに”根が真面目”というのが番組でバラされ、キャラがブレてしまったコンビ・EXIT。
自分では笑いを取りたいのに、いつのまにかイジられキャラになったのが我慢ならないというフルーツポンチ・村上
女優を目指して芸能界入りしたものの、演技も歌も踊りも何一つ満足にできず、『ゴッド・タン』でいじられ続けているタレント・本郷杏
彼らに向けて眉村ちあきが作った曲が「大丈夫」。
Youtube上で動画が削除されてしまっていた)
この曲を聞いた途端、僕も「なんちゅー才能なんだ・・・」と言葉を失い、しばらくこの曲が頭の中でリフレイン。
Youtubeに上がってからはくり返し、くり返し再生しながら「う~ん・・・すごいな・・・」と感心しきっているのである。
この曲は本人でも会心の作だったようで、自身のコンサートでも何度か歌っているようである。
番組放送時は即興で一番だけを作って披露していたが、その後コンサートで2番を作ったらしい。
ただ、あの時の放送のノリで作った1番に比べて、2番はやや感動が薄れている気がする。
実はこれが即興のおもしろいところである。

 

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昔、日本テレビ系列で『誰も知らない泣ける歌』という番組が放送されていて、そこにアルケミストというアーティストが出演していた。
アルケミストは観客から出された3つのワードを取り入れた曲を即興で作るという特技があり、それを披露したのだが、そのクオリティの高さに本当にびっくりした。
Youtubeを探してもその時の曲は見つからないので、みなさんにご覧いただけないのが残念だが、その時に出されたお題は「卒業(式)」「たまねぎ」「涙の美輪明宏」の3つ。そしてアルケミストが即興で作った曲が以下の通り
 卒業しても 卒業できない 
 ああ 僕は 大きな未来と
 大きな君への気持ちの 間で揺れる 小さな僕だ
 ああ、これは玉ねぎ切って 流れる涙なんかじゃない
 ああ、これは ああこれは
 君を思って泣いた涙だよ
 君の眼から 黒い涙が出てる 笑える
 ああ 美輪明宏
 涙の美輪明宏みたいって
 ごまかして 僕も泣いた
すごいな。
即興で3つの言葉を入れつつ、ストーリーを作る。
それだけでも難しいのに、ちゃんと伴奏に合わせて歌いながら、質の高い曲に仕上げる。
本当にすごいアーティストだと思う。
その後、何度か別の番組で即興曲を披露するのを見たのだが、どれもクオリティが高くて驚いたのを覚えている。
しかし、おもしろいことにCD化された彼らの曲は思うほどヒットしていないのである。
正直、即興で作った曲は「こっちの表現のほうが良かったかも」「ちょっと”ああ~”とか”おお~”でごまかしたかな」なんて粗が見つかる部分もある。にも関わらず、勢いのままに即興で作った時のほうがインパクトのある作品になる場合がある。

 

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玉置浩二さんがKinki Kidsに作った「むくのはね」という曲もそうだったな。
新堂本兄弟』(フジテレビ系)で番組中にギター一本で作った曲は、まだ歌詞もなく、粗削りではあるが、めちゃくちゃカッコよかった。
しかし その後完成した曲「むくのはね」は、最初に原曲を聞いたときほどのインパクトがなかったのは摩訶不思議。

KinKi Kidsへ 玉置浩二 むくのはね(原点〜完成)2012 10 - YouTube

 

そういえば僕の好きなイラストレーターの永沢まことさんも、旅先でスケッチをするときは下書きなどせず、いきなりペンで輪郭をはっきり書く、失敗できないので一本一本を真剣に書く、勢いに任せて書いた方が線が生き生きする、というようなことを言っていたな。
もちろん、推敲を重ねた作品が全部悪いわけではないし、流れに任せてさらさらと書いた作品はえてして質が悪い。
ただ即興の爆発力もあなどれないのだ。

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僕は心配性なところがあるので、ブログを1つ書くのに何度も何度も推敲して1時間半くらいはかけるタイプなのだが、確かにそれで劇的に質が良くなった、ということもない。せいぜい誤字脱字が見つかるくらいだ。
推敲なし、見直しなしで、勢いだけで書いてもいいなら半分の時間で書けるから、ブログも楽に毎日更新できるのにな。
ま、見苦しい駄文がさらにひどくなるだけだろうけど。

2018年 よく見たYoutube動画

早いもので2019年ももう3か月が過ぎようとしている。
4分の1が終了。
早いな。
おっさんになると本当に時間が経つのが早い

本当は年始めに「2018年によく見たYoutube動画ランキング」を書こうと思ったのだが、気づけは3月下旬。

ダメなオヤジだね。でもとりあえず書いておこう。

僕は大体昼休みの30分と寝る前の1.5時間、あとトイレに籠っている15分くらいがYoutube time。
でもあまりYoutuberの作品は見ないかな。

昼飯時は「飯テロ」「孤独のグルメ」「うまそう。。。」といった動画を見るのだが、こうした動画を見ながら食べる飯は滅法うまい!

飯を食べ終えると大体残りの昼休みを格闘系の動画かスポーツ関係で頭と気分をすっきりさせると、午後の仕事がはかどる(ような気がする)。

寝る前は大体昔のバラエティ番組の映像とか、プロレスなんかをパソコンで見た後にベッドに移り、スマホで芸人さんのネタまとめ動画を聞きながら眠りにつく。

トイレではPVを見ることが多いのは、やはり見られる時間が限られているからか。

で、僕はおんなじ動画を何回も何回も見る癖がある。
本当に30回、40回とくり返し見て、再生回数のUPに貢献してしまう。
今日はそんな中から2018年にヘビーローテーションで見ていた動画を挙げ、明日以降少しずつ感想を書いていこうと思う。

Ⅰ 飯テロ

①「新・最高に旨そうな小栗旬飯旨CM集」
https://www.youtube.com/watch?v=bdQWJp8Siss&t=8s
②【旨そうすぎる】丸亀製麺うどんCM厳選集
https://www.youtube.com/watch?v=9RMp9er-vlM
③【食欲全開!】クックドゥ 中華総菜CM総集編/ Cook Do食欲全開中華CM集
https://www.youtube.com/watch?v=3njOtpr-2LQ&t=167s
刑務所の中 食事シーンまとめ
https://www.youtube.com/watch?v=OYK5kcHyBn4
⑤「うまそう。。」
https://www.youtube.com/watch?v=tdzehS75Cp0
https://www.youtube.com/watch?v=B8oWabpaviw
⑥農業高校の飯テロがこちらです。
https://www.youtube.com/watch?v=BAFG-ps4pYE
⑦コンビニの缶ビールと焼き鳥が極上に美味くなる動画
https://www.youtube.com/watch?v=ujv0mPJS5RA

ここらへんは本当に何度も見た。1年間昼飯のたびにくり返し見ていたな。逆にこれらがあまりに気に入りすぎて、他の飯テロ動画が物足りなくなったりしたな。

Ⅱ スポーツ・格闘技・プロレス

①平昌五輪MAD〜ハローカゲロウ〜
https://www.youtube.com/watch?v=VsKeaKhsmc0
②金!新種目・女子マススタート決勝 ラスト4周 2018平昌オリンピック 高木菜那
https://www.youtube.com/watch?v=5uYgq6dGrhI&t=1s
③大迫 、ハンパないって!!フルバージョン
https://www.youtube.com/watch?v=pZ2UIYRK5I4
④僕たちはまだ本当の少林寺拳法を知らない This is true Shorinji Kempo
https://www.youtube.com/watch?v=7iaMlqRgJS8
⑤Katsuyori Shibata vs Kazuchika Okada NJPW Sakura Genesis 2017 Highlights
https://www.youtube.com/watch?v=AleOuYZ_vDc


Ⅲ 歌・PV

眉村ちあき 即興ソング
https://www.youtube.com/watch?v=phlCjPwDWbk
関取花 むすめ
https://www.youtube.com/watch?v=mLwUpCJrEPM
椎名林檎宮本浩次-獣ゆく細道
https://www.youtube.com/watch?v=tIe-kXTmj3E
THE BLUE HEARTS (ザ・ブルーハーツ) / 人にやさしく / ブルーハーツの名曲「人にやさしく」受験生の歌声で繋ぐ感動CM  カロリーメイト新CM「心の声」篇
https://www.youtube.com/watch?v=gW08EgQF4lw
https://www.youtube.com/watch?v=hhB6w_UUp0c
ヒュー・ジャックマンも感涙!映画『グレイテスト・ショーマン』「This Is Me」ワークショップセッションの様子
https://www.youtube.com/watch?v=g91RzJqMNhU&t=1s
ちあきなおみ 喝采  数多い中でも保存版 Wide画面でNew
https://www.youtube.com/watch?v=inUBzjhaz7Y


なんかタイトル見ただけでまた見たくなったなあ。
今年もおもしろい動画が見つかるといいなあ。

A yacht moves by wind

最近、気になる芸人さん


そう、あの”西野”



何年か前までは「嫌われ芸人」としてしか認識していなかったけど

最近、すごく気になるのである。

僕は今年40代後半に入ろうかというおじさんであるから、西野氏より年上で

キングコングがデビュー2年目でM1の決勝に残ったことも

西野氏がトレンディドラマに抜擢されてたこともなんとなく知っている。

ビッグマウスでナルシスト


ガラガラ声で自意識過剰


彼が嫌われるようになった過程もなんとなく見てきた。

でも昔はそれほど気になる存在ではなかった。

日本人は謙虚な人が好き、ナルシストは嫌い

だから西野は嫌われる

それくらいの認識だった。


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僕が西野氏を気にしだしたのは

『アメトーーーク』の「好感度低い芸人」(2013年)、同じく「スゴイいんだぞ!西野さん」(2016年)あたりからか。


彼が「ディズニーの倒し方が見えてきた」と言ったとか

"クラウドファンディング”でお金を集め、ニューヨークで個展を開いた、とか

渋谷のハロウィンの翌日に人を集めてゴミ拾いをし、そのゴミでアートを作ろうと企画した(が、アンチに全てゴミを拾われてしまった)、とか

たくさんのクリエイターと協力・分担して4年半かけて1冊の絵本を書き上げた、とか

そんな話をちょくちょく聞くようになってからである。


あれ?この人って、嫌われているんじゃないの?


この人ってアンチがたくさんいるんじゃないの?


みんなこの人が嫌いで、友達が少ないんじゃないの?



そんな僕の偏見をあざ笑うかのように

彼の周りには人が集まり、お金が集まり、人材が集まるのである。


実はそんな人を最近テレビでよく見かけるようになった。

堀江貴文とか、古市憲寿とか、前澤友作とか・・・



僕はもともと保守的で、冒険が大嫌い

毎日同じ生活でも全然苦にならないし、安定こそ最高の価値

謙虚で、周りの評価を大切にし、

誰にも迷惑にならないことばかりを気にしてきた。

人との間に面倒なことを起こしたくないし

新しい価値観を受け入れるのもおっくうだ。


でも人生100年時代はもうすぐ

僕だってあと20年は働かなければならない。


本当に自分で言うのもためらわれるのだが

この人たちを理解しようとせず、拒絶し続けると・・・俺に未来はないな


とまで思うのである。


んで、先日、TEDというプレゼン動画の中にあった西野氏のプレゼンを見てみたのである




18分の動画のうち、前半15分は漫談

かと思わせといて、残りの3分でちゃんと教訓へとつなげていった。

その内容は「ヨットは追い風はもちろん、向かい風でも帆の立て方次第で前に進むことができる。無風状態よりずっといい」ということ。

このプレゼン時の観客は子供たちだったが

チビだとか、運動神経が悪いとか、勉強ができないといった逆境すら、前に進む推進力になるというような応援のメッセージに変えて見せた。

もちろん、西野氏自身も世間からの冷たい風当たりすら、帆の向きを”お笑い”に変えることでちゃんと前に進んでいる。

世間から「芸人が芸術家気取りで絵本なんて書きやがって」「偉そうにビジネス本なんて書いてないでお笑いやれ!」なんてネット上で叩かれたって、

実際の西野氏のもとには人が集まって来る。

お金も、チャンスも集まって来る。


本当は西野氏自身が一人でも前に進むエンジンを持っているのだろうが

彼がエンジンを切っていても、風は常に彼の元に集まって来る


ん~まいったな・・・

僕はまず・・・何をしたらいいだろう?

まずは外に出て風を受けることに体をならすべきだな。


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中年のおっさんには辛いけど・・・

30日間チャレンジ

先日、知り合いから「英語の勉強のためには”TED"という英語のプレゼンテーションサイトの動画を見るといいよ。内容もおもしろいし」という話を聞いた。


ほんまかいな、と思いながら「TED、おすすめ」でググってみると、いくつかおすすめが出てきた。
https://sakagami3.com/entry/2017/10/02/130134

んで、ためしにその中の1つを見てみたのだが、これがなかなかおもしろくて感銘を受けてしまった。

僕が選んだのは「マッド・カッツの30日チャレンジ」というプレゼンで、たった3分27秒の動画だったが、実に興味深かった。
https://www.youtube.com/watch?v=JnfBXjWm7hc

要約するとこんな感じ。


・マッド・カッツさんはそれまでただのコンピュータ・オタクだった。
・ある日、ドキュメンタリー映画監督のモーガン・スパーロックの作品「30days」という作品に感銘を受け、自分もチャレンジしたいと思い立った。
・そこで”自分がやりたいと思ったこと”に30日間チャレンジした。
・例えば「1か月毎日写真を撮る」「自転車で会社に通う」「キリマンジャロに登る」「小説を書く」など。
・30日という期間は新しい習慣を試してみたり、辞めたいと思ったことを試してみたりするのに丁度よい。
・続けられる小さな挑戦は身に付きやすく、記憶に残りやすい。


なるほどなるほど。確かにそうだ。

そこで僕も何かに30日チャレンジしてみようかな、と思い立った。

40代も後半に入ろうとしている中年のお父さんの、密かなチャレンジである。

では何からはじめようか。

実はこれは割とすぐに決まった。

そもそも「英語が上手になりたい」「英語で仕事ができるようになりたい」と思ったからTEDなんてものを見始めたのだ。

なら、TEDを見るのが一番早い。

ということで僕は30日チャレンジとして以下のことを設定した。

毎日何かしらTEDを見て、英語の勉強をする


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これを2019年2月14日から始めて、今が3月中旬。

結果はどうなったかというと・・・・・・ほぼ完遂できたのである。


正確には”毎日”ではなかったが、1日に2つ動画を見たり

TEDの代わりに映画”ボヘミアン・ラプソディ”を字幕で見たり

息抜きに日本人のプレゼン動画を見たりしながら、1か月を乗り切ったのである。


んで、今はちょっと自分にご褒美をあげたいくらい気分がハイなのだ。

仕事をしながら勉強を続けるのは本当にキツイ。
でも1か月続いたのは、まず1か月という長さだ。
これが実にちょうどいい。
楽過ぎず、辛過ぎない。
正直、2週間を超えたあたりで最初のヤマを迎えた。
仕事で帰りは遅くなり、翌日の仕事のためにはすぐに寝なければならない日もあった。
でも「これをずっと続けるのか」とため息と絶望が襲うのではなく「あと2週間か」「行けるかな~。ま、あと2週間だしな」と考えられるのはいい!

あとTEDは短いものは3分くらいなので、大した負担ではないということだ。
僕は最初に字幕なしで聞き、次に英語字幕、次に日本語字幕、最後に字幕なし、といった感じで同じ動画を4~5回聞いていた。5分のプレゼン動画ならそれでも30分はかからない。

これが「1日1時間英語の勉強をする!」とかだと辛かったかもしれない。

僕はあくまで動画を見るだけ。
わからなかった語彙を覚えるとか、単語帳を作るとか、そういうのは一切なし。
「それで英語が上達するのか」という話は僕の30日チャレンジとは別次元の話だ。


ただしそれでも最後の1週間はネタがなくて結構大変だった。
「TEDのおすすめ」サイトで、5分程度の面白い動画は見つくしてしまったし、
15分とか20分の動画だと結構長くて、繰り返し聞くのは嫌になることもあったな。

でも1か月は終わった。
いや~、がんばったな、俺。


で、個人的にこの「30日チャレンジ」をやってみて気づいたことは

・仕事や勉強などの義務でやらなければならないことを選ぶと辛いだろうな、ということ。
・選ぶなら「前からやってみたかったこと」を選ぶのがベストであること
・「小さなチャレンジ」「これならできそうだ」という軽いものを選ぶこと
 *それでも忙しい社会人には30日続けるのは結構大変
・将来、それをずっと続けてもいいし、30日で辞めてもいい。その「お試し期間である」という認識がよい。
・30日はがんばって続けることが大切であるが、大人は妥協も必要。
・この年になっても、ちゃんと達成できると自信と満足感が得られるということ。

などである。

さらにはやっているうちに、「次の30日であれやりたいな」というアイディアがどんどん出てくるのである。

んで、僕はすでに次の「30日チャレンジ」に向けて、歩き出しているのだが、それはまた後日、ここに格として、まずは、

おめでとう、おれ!


ありがとう、おれ!



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『永遠の0』ごっこ⑤

(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。

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靖国神社にある靖国偕行文庫という資料館の司書さんは

「おじい様は何か特殊技能があったんじゃないですか。36歳で初めて招集されていきなり司令部に所属するなんて珍しい」

と僕に語った。

僕は祖父ちゃんのことを何も知らない。
(というか、父親が5歳の時に祖父ちゃんは亡くなったのだ。父だってほとんど祖父ちゃんのことは知らないらしい。)
僕の家系は普通の平民だから、祖父ちゃんも農家だろうと思っていた。
その祖父ちゃんに特殊技能なんてあるわけないよな。

しかしこれは僕の大きな勘違いだった。
祖父ちゃんが持っていた特殊技能、それは僕が育った神奈川県平塚市という町に大きな関係があった。


ちなみに、このブログをたまたま読んでくれたみなさんは「神奈川県平塚市」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか?

僕は平塚市で生まれ育ったが、僕が思い浮かぶ地元・平塚は

1 東海道の宿場町
2 日本三大七夕祭りの一つ、平塚七夕祭り →もっとも仙台の七夕のほうが有名だが
3 湘南ベルマーレ(旧 ベルマーレ平塚)→あの中田英寿も在籍
4 湘南平 →恋人が南京錠を金網につけると結ばれるという伝説も
5 ビーチバレー →河合俊一が平塚をビーチバレーの聖地に
6 箱根駅伝 →お正月に中継してもらえる
7 ヤクザ →駅の周りに風俗店多数

くらいか。

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しかし祖父が産まれ育った明治から大正、昭和にかけて、平塚は軍需産業の街だった。

1905年(明治38年)に日本政府とイギリスのアームストロング社他3社によって日本爆発物製造株式会社平塚製造所が作られ、1919年(大正8年)には大日本帝国海軍が全施設を買収して「海軍火薬廠」として開庁した。

恥ずかしながら、そんな地元・平塚の歴史を僕は全く知らなかったのだ。

小学校でも中学校でも高校でも先生は教えてくれなかった。

夏休みの自由研究で調べた奴もいなかった(と思う)。

祖母も父もそんな話をしれくれたことはなかった。

だから僕の中で「平塚は東海道の宿場町」とか「七夕祭りが有名」なんて呑気な知識しかなかったのだ。

卒業旅行で広島の原爆ドームを観に行ったり、「フジテレビがあるお台場は昔、砲台があったからお台場って言うんだぜ!」なんて偉そうに他人に説明したりしている場合じゃなかったのだ。

僕の地元は太平洋戦争の日本海軍の火薬廠があった町で、市民は直接・間接的に軍需産業に携わっていたのだ。

しかもネットで調べてみると、いつもバスに乗りながらなんとなく見ていた石碑や塔、工場や病院がすべて当時の遺構として残されていたものであり、僕は小さいころからそれを見ていながら全く興味関心を示していなかったのだ。

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「親父さんは火薬廠に勤めていたよ」

父は熱い緑茶をすすりながら僕に語った。

(というか、僕が祖父ちゃんのことを調べているの知ってるんだから先に教えておいてくれたら良かったのに。)


これでなんとなく疑問に思っていたいくつかのことがわかった。

祖父が36歳まで軍人として召集されなかったのはすでに海軍の工場で働いていたからだ。

資料によると戦争の末期は材料がなくて工場で芋を作っていたらしい。そんな状況だったから36にもなって召集されたのだ。

いきなり「司令部」に配置されたのも火薬廠で技師として働いていたからだろうし、東北の部隊に配属になったのも特殊技能を買われてのことだろう。

最後は所属部隊を離れてセブ島に残ったのは作戦だったのか病気や怪我だったのかは不明だが、ミンダナオ島まで進んだ部隊とほぼ同時期に撃退されているので、どちらにせよ死は免れなかったろう。


ちなみに平塚市はその後の昭和20年7月に東京大空襲を超える44万7716本の焼夷弾を落とされ、焼け野原になったそうだ。

戦後しばらくは「平塚が軍需産業の町だったから空襲に遭った」と考えられていたが、戦後50年たってアメリカ軍の資料が公開されたところによると

終戦前、平塚の海軍火薬廠で何も作られていなかったことはアメリカはすでに知っていた。
・あえて焼き野原にしたのは平塚が本土決戦の上陸地に予定されていたから
・生き残った市民はサリンで抹殺予定だった

とのこと。

・・・終戦がもう少し遅かったら・・・平塚も広島・長崎と並んで歴史に名を刻んでたな。
もちろん刻まれなくてよかったけど・・・

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本家に集結した伯父、父、叔父、叔母は僕の説明を聞くと、なぜかみなほっとしたような顔をした。

叔母さんは「ありがとね、いろいろ調べてくれて」と僕に感謝の言葉を述べ

叔父さんは「すごいな~、ちゃんと記録が残ってるんだな」と感心した。


僕は祖父を偲んで涙する姿や「鬼畜米英!」と怒りに震える反応があるかな、と思っていたが
みな一様に穏やかだった。

なぜこんなに平静でいられるのだろうか?

さすがにみな70を超えているので、若い頃より穏やかになったのだろうか。


すると叔母さんは「私たちじゃ調べられないからね」と僕に語った。

そうか、そうだろうな・・・

伯父さんは祖父ちゃんが死んだ時、9歳だった。そして13歳の時、家督をついて家長になったという。
長男としてがむしゃらに家を守ってきたのは想像に固くない。

父は祖父ちゃんが死んだ時、5歳だった。そして中学を卒業するとすぐに大工の丁稚をしたり農家を手伝ったりしながら家計を助けた。

みな祖父ちゃんの死を悲しむ余裕はなかった。
戦後の復興から立ち上がるために、がむしゃらに生きるしかなかった。

祖父ちゃんが戦死したことが家族に告げられたのは昭和22年6月。
祖父ちゃんがなくなって2年が経っていた。

小さな桐の箱に土が少し入っていて、祖父ちゃんが戦死したセブ島の土だと告げられたそうな。

でも祖父ちゃんが当時、どこの部隊に属していたのか、どんな戦況にあったのかを知るすべはなかったらしい。

今はインターネットでいくらでも調べられるし、ネット上に情報が載っていなくても、調べ方を調べる方法があるのだが、おじさん・おばさんたちは使い方を知らない。

今回、たまたま僕がフィリピン赴任になって、おじいちゃんの戦没地だと知って調べたからわかったことがたくさんあったらしい。

43歳にしてやっと親孝行ができたのかもしれない。



おしゃべり好きで陽気な伯父さんは、最後に

「よし、みんなでセブに行くべよ。俺が金出してやんからよ!」

と壮大な旅行の計画を立てた。

70歳以上の兄弟がフィリピンのセブ島旅行とは・・・

その時は僕も案内してやらねばなるまい。

いつになるかはわからないが、おじさんたちが来た時に僕の『永遠の0ごっこも終わるだろう。

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『永遠の0』ごっこ④

(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。

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その日、僕は新宿にいた。
これまで得た祖父の情報は

1 祖父は明治42年(1908年)に神奈川県平塚市で生まれた。
2 昭和19年(1944年)3月に教育召集により、近衛歩兵第5連隊に入隊
3 同年6月 独立混成第54旅団司令部に編入山口県門司港より出帆
4 同年7月 フィリピンのマニラ着
5 昭和20年(1945年)3月フィリピンのセブ島セブ市で戦死

亡き祖母の話によると野戦病院にいた時にアメリカの空爆にあったらしく、遺骨も戻ってこなかったし、正確な死亡場所もわからないという。

ん~でも、36歳まで軍隊に行かなかったってのも変な話だし
独立混成第54旅団って、インターネットによると東北の部隊らしいし
この旅団って、セブ島を通過してミンダナオ島のザンボアンガってとこまで進んでるんだよな。
だからじいちゃんがセブで戦死ってのはどうもおかしいんだよな。


ただ祖父の個人情報はほぼほぼ出尽くした感があった。
もうあとは資料館で当時の戦闘の様子を知るくらいだろう。

もっともこの日の夜、僕は自分が全くの無知であったことを改めて思い知らされるのである。

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今日の予定は

①平和祈念展示資料室 見学(東京都新宿区 新宿住友ビル48階)
②しょうけい館 戦傷病者資料館 見学(東京都 九段下)
靖国神社 靖国偕行文庫で調査 (東京都九段下)

長い一日になりそうだ。

10時15分 新宿住友ビルに到着

平日の午前とあって、スーツを着たサラリーマンが行きかう街・新宿で
無職のおじさんである僕はかなり場違い。
入社したばかりの穢れなき初々しい新入社員の笑顔がまたまぶしい。
仕事が辛くてもやめちゃダメだぞ。
新宿の大手企業に勤めるって、本当にすごいことなんだから。

新宿住友ビルの48階はレストランが1つと、今回の目的地である平和祈念展示資料室だけがあり、ひっそりしている。

中に入るとじいさん・ばあさんのグループが資料館ガイドの説明を受けていた。
僕も最初はこのグループについてガイドさんの説明を受けていたのだが、この日は他にも訪問先があるので、自分でさっと一回りすることにした。

この資料館は「兵士」「戦後強制抑留」「海外からの引き上げ」の3つをテーマに展示しているのだが、マネキンを使って当時の様子を再現したジオラマがリアリティがあって怖かった。

またこの日はちょうどシベリア抑留についての特別展示をしていて、かなり太った資料館ガイドの男性が「シベリア抑留中は1カケラの黒パンと水のようなスープのみといったひもじい思いを…」と熱弁していた。

(この人の説明ではあんまり”ひもじさ”が伝わらないような・・・)

僕は図書閲覧コーナーに朝日新聞の便覧があるのを見つけ、祖父ちゃんがなくなった時の記事を探してみた。

昔、学校で習った通り、当時は朝日新聞でも”国威発揚
敵の飛行機を撃ち落としただの、戦艦を沈めただの、今でいう節約を促す記事だの…

で、祖父ちゃんが亡くなった昭和20年3月29日のフィリピンのことが書いてないかなと目を皿のようにして探してみると、4月4日の記事に「敵セブに侵入」というリードを見つけた。

ここでの収穫はこれだけ。
東京の永田町にある国立国会図書館に行けば当時の新聞のコピーが入手できるらしいので、あとで行ってみることにした。

12時半 新宿から電車で九段下へ
りそな銀行と九段生涯学習館という2つの大きな建物の間の細い道を入ると、目的地である「しょうけい館」がひっそりと建っていた。

まずは2階の常設展示を見学。徴兵検査から入営、出征、そして戦場での受傷・救護、帰還後の苦労などがわかるように順に展示されていた。

中でも野戦病院ジオラマはかなり迫力があった。
病院といっても名ばかりで、山のほら穴だ。
ここで簡単な治療をしてもらえれば御の字。
手遅れの兵士もいれば、薬も治療道具もなく何もしてもらえなかった者も多かったらしい。

うちの祖父ちゃんも野戦病院で亡くなったらしいけど・・・
どんな気持ちだったんだろうね・・・

しょうけい館でも祖父ちゃんや、祖父ちゃんが所属していた旅団に関する情報は得られず、僕は最後の目的地・靖国神社に向うことにした。

14:00 しょうけい館から歩いて10分ほどで靖国神社に到着
第一鳥居のでかさにびっくり!
大村益次郎銅像にこれまたびっくり!
第二鳥居の下で辞儀したり、大手水舎で手や口を洗ったり、日本人なのに作法がわからずドギマギ

そしてこれは本当に偶然なのだが、神門をくぐったところで急に風が吹き、靖国の桜がブワーっと舞い散ったのだ。

これにはその日たくさん来ていた外国人観光客も感嘆の声を上げた。

まさかと思うけど、やはり僕には祖父ちゃんが「よく来たな」と迎えてくれたような気がした。

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時間があればゆっくり昇殿参拝をしたり、遊就館で特攻隊の手紙を読んだりしたかったのだが、今日の目的はあくまで祖父ちゃんの資料探し。

僕は本殿横にある靖国会館1階の靖国偕行文庫に向かった。
ここは「靖国神社に鎮まる英霊の戦歿された当時の調査資料を整備し、その御遺徳を顕彰するとともに、後世の研究に資することを目的とした図書館」であり「戦史・戦記・部隊史・教程・教範類・英霊の追悼録・回想録等の日本近代軍事史関係資料」があるという。

僕は受付の方に祖父ちゃんのことを調べたい旨を告げ、神奈川県庁でもらった戦没者原票を見せると、その手の事情に一番詳しい年配の男性ががんばって色々な資料を調べてくれ、僕に説明してくれた。

その人によると
・祖父が所属していた独立混成第54旅団はマニラがあるルソン島からセブ島、そしてミンダナオ島に進み昭和20年3月に敗走している
・祖父がセブ島のセブ市で戦死しているのは、作戦のためセブ島に残ったか、病気や怪我で進軍できなかったためでないか
・祖父が戦死する数日前にアメリカ軍がセブ島に上陸。日本軍はセブ市郊外の山に基地を作っていたが祖父がなくなった数日後には制圧されたという記録がある。祖父が亡くなったのはその戦闘だろう

ということを話してくれた。そして不意に「おじい様のご職業は?」と僕に聞いてきた。

正直、父親からも聞いてなかったのだが、商売をやっていたというのも聞かないし、田舎の三男坊だし、まあ農家だろうと思って「たぶん農家だと思います」と答えると

「う~ん、でもいきなり司令部に入っているし、何か特殊技能があったと思うんですよ。普通は歩兵ですからね」

という。なんだろう?趣味で無線でもやってたか?

とにかく祖父ちゃんは所属していた独立混成第54旅団とは別行動であり、セブ島に上陸したアメリカ軍との戦闘で亡くなったらしい。

当時の朝日新聞に書いてあった米軍のセブ上陸の日付と、祖父ちゃんの戦史の日付・場所も一致しているので、ほぼほぼ間違いはなかろう。

靖国偕行文庫の人によると、フィリピンの戦没者の中にはセブ島のどこで亡くなったかわからない人も多いという。

祖父ちゃんはセブ島のセブ市(おそらく実際はセブ市郊外の山中)ということころまでわかっているだけでも幸運らしい。

だから父を連れて行くならセブ市に3つほどある慰霊碑に連れて行くのがよかろう。

それにしても祖父ちゃんって、何の仕事してたんだろうね?

召集されて3か月の訓練だけで司令部に配属されて一等兵だから、そんなに悪くないんじゃない?


その夜、僕は両親に今日わかったことを話した。

そして祖父ちゃんの職業を聞いて、僕はあまりの衝撃と自分の無知に言葉を失ってしまった。


俺、今まで何してたんだろう?

学校では何も教わっていなかったし、両親にも祖母にも教わっていなかった。

本来なら夏休みの自由研究でやっとかなければならないことを
43歳になって初めて知ることになるのであった。

つづく。

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『永遠の0』ごっこ③

(前回の続き) 仕事でフィリピンに赴任することを両親に伝えたところ、祖父が同国で戦死したことを知らされた僕。 ひょんなことから祖父のことを調べることになった。市役所の福祉総合課で問い合わせたところ、祖父は『独立混成第54旅団司令部』に所属していたことを知る。

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僕は横浜にある県庁の生活援護課で古いパイプイスに座っていた。
いまどき珍しい灰色の事務机はところどころ錆びていて、なんだか”昭和の区役所”といった感じだ。
本当にここが神奈川県庁?
これなら地元の市役所のほうがよっぽど立派だ。

聞くところによると神奈川県庁は現在、新しい庁舎を建設中なので福祉総合課はプレハブ事務所に仮住まいなのだそうだ。


実は戦没者の軍歴証明などの業務を行っているのは厚生労働省の援護局というところなのだが、大まかなことは戦没者の地元の市町村役場でも教えてくれる。

僕は地元の市役所の人に祖父が「独立混成第54旅団司令部」に所属していたことを教えてもらっていた。
それをネットで調べたところ、いくつかの情報が得られた。


しかし平民中の平民である祖父の名前が出ているわけもない。
しかもこの独立混成第54旅団は「仙台師団管区」と「宇都宮師団管区」で兵員を集めつつ仮編成でマニラに向かった」と資料には書いてある。

祖父は生まれも育ちも神奈川なので、なんで祖父がここに所属していたのかがわからない。

市役所の人によると「同姓同名ということもあるので、戸籍を取って県庁に問い合わせたらどうか」ということだったので、わざわざ県庁まで来たのだった。


僕はこの田舎の役所のような生活援護課で祖父の戦歴を調べたい旨を述べ、地元で入手した祖父の戸籍謄本と自分の戸籍謄本を手渡した。

おそらく43歳の僕よりもずっと若いであろう県庁職員の女性が対応してくれた。

その女性は「県庁では厚生労働省の援護局から資料を預かり、情報を提供しているが、横浜も空襲で資料の6割を焼失してしまったので、おじい様の資料が残っているかどうかは定かではない」と前置きしつつ、資料を探してくれた。

残念ながら当時の資料は残っていなかった。
県庁には戦後に作られた個票だけが残っていて、簡単な軍歴、遺族年金の記録などが書かれていた。
そこにも「独立混成第54旅団司令部」と書かれていた。
なんで東北の部隊に祖父が所属していたのか疑問は残るが、もう残っている資料にはそれしか書かれていないのだからそこを疑ってもしょうがないだろう。

その日は祖父の戸籍と僕の戸籍・免許も持ってきており親族として確認が取れるので後日コピーを送ってくれるとのことだった。(実際は電話で問い合わせてから送付手続きを取ることが多いらしいが)

これよりさらに詳しいことを知るのは難しい感じだった。

映画『永遠の0』だと主人公である孫がまだ20代で、特攻で亡くなった祖父の当時の部下がいろいろな話を聞かせてくれたのであるが、2017年現在、戦争に行った世代はもう95歳以上
今から祖父のことを知っている戦友を探して証言を聞くのは難しい

そもそも資料によると独立混成第54旅団の8割がフィリピンで戦死したそうだし、残りの2割も生きている保証はない。

祖父はセブの野戦病院で米軍の空襲を受けて亡くなったらしいので、祖父の最後をみた人も当然全滅しているだろう。

祖父が名のある軍人とか少しは位の高い軍人、もしくは特攻隊員だったらそれなりに資料や証言もあったろう

また地元の名士とか、何代も続く老舗の家の出とか、最低でも一族の本家の長男とか大学出とかだったら祖父のことを知っている人も少しはいただろう。

しかし私の家はそうではないのである。

田舎町から引っ張り出された名もなき一兵卒。
陸軍とはいうものの、はっきり言って捨て駒にされるような歩兵だったろう。

今もフィリピンのどこかで眠っている祖父はかろうじて親族の記憶の中にだけ留まっている。


僕の父も今年で78歳。
海外に足を運べるのもあと数年

せっかく僕がフィリピンに赴任するんだから、祖父の亡くなったところに連れて行ってあげたいな。
慰霊碑なんかがあるんなら、花の一つでも手向けてあげたいな。

もうちょっとだけ調べてみるかな。

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