俺よ、男前たれ

おもしろきこともなき世をおもしろく

祖母の逝くとき

(*この文は、2001年に書いたものです。当時、僕はマレーシアにいたため、祖母の葬儀に参加することができませんでした)


2001年7月23日午後10時31分。祖母が死んだ。

ガンであることは2月にわかっていたが、いつまでもつかはわからなかった。

3月の時点では、半年か1年と言われていた。

だから祖母の訃報は思っていたより早かったのでびっくりした。

4月にマレーシアにくる前に祖母に会ったら、おそらく2年後に帰国するまでは自分は生きていまいと言っていた。

ガンは本人に知らされていなかったから、自分の寿命のことをいったのだろう。

私はなるべく頻繁に手紙を書こうと思っていた。

しかし実際には仕事が忙しかったことと、自分のものぐさな性格のため、手紙を書けないでいた。

やっと1週間の休みがとれたので近況報告をしたため、明日にでも出そうと思ったその夜、母から訃報のメールが届いたのだ。


母は長女なので、いろいろと葬儀の準備に忙しかったのだろう。

メールは2日後の25日に私のもとに送られた。

そのあとすぐ、国際電話をかけたが、両親は家にいなかった。

翌日も朝、昼、晩と国際電話をかけたが、やはり家にはいなかった。

職場も休んでいるらしい。

おそらく祖母の家にいるのだろう

私はメールも何度も送ったが、母親は毎日メールをチェックするわけではないので、なかなか連絡がとれないでいた。

母親から電話が来たのは5日後の28日の夜であった。

祖母が亡くなった直後はおそらくはひどく動転していたであろうが、さすがに5日後とあって、母は落ち着いていた。

そして私は祖母の最後を聞いた。


祖母は私が日本に居た頃には一人で散歩などもしていたが、先月から床に伏し、訪問看護を受けていた。

食欲はなく、点滴をうつと少し元気を取り戻した。

この時点ではおそらく盆まではもつだろうと言う見解だった。

しかし先週の週末あたりからは容態がひどくなり、自宅で24時間の点滴を受けていた。

トイレにもいけず、言葉も少なかった。


22日、母と叔父は祖母の家に泊まった。

その夜、祖母は楽しげによくしゃべったと言う。

不思議なぐらい、よく話したと言う。

深夜1時になっても話をやめようとしないので叔父が「もう寝なよ」と言った。

「何時だい?」

「もう1時だよ。」

「もうそんな時間かい?じゃあ寝なきゃ」

そう言って祖母は話を止めた。

明け方、祖母は急に静かになったが、しゃべりすぎで疲れたのだろうと母は思ったそうだ。

しかし昼になっても祖母は起きようとしなかった。

そして肩で息をするようになった。

今夜がヤマかもしれない。

祖父は親戚一同に電話をかけた。

祖母の兄弟は近所に住んでいるが、祖父の兄弟は少し離れたところ(横浜、川崎)に住んでいた。

無理に呼ぶのも気が引けたが、一応声をかけると夕方4時には各自家を出たとの知らせがあった。

夜7時、祖母のうちにはたくさんの人が集まった。祖母の容態はひとまず落ち着いたようだった。

夜9時、店に出ていた父は母に電話をかけた。

母は親戚がたくさん集まっているから、こちらに来るときにお客さん用のジュースを持ってきて欲しいと言った。

父は仕事が終わり次第祖母のうちに行くつもりであったが、まだ容態は安定していると思ったそうだ。

親戚一同は、容態が安定していることを確認し、まだしばらくは大丈夫だろうと一応安心して帰路についた。

祖母の容態が急変したのはその直後だった。


あごで息をするようになる。

訪問看護婦によるとこの呼吸をするようになると終わりだそうである。

母は急いで駆けつけるよう、父に電話をかけた。

安心しきっていた父は電話口で怒鳴るように訴える母親に驚いたと言う。

祖父や母、叔父たちが周りを囲む。

祖母はなぜか「かあちゃんかあちゃん・・・」と祖母の母親を呼んでいたという。

つまり、周りにいる人ではなく、三途の川の向こうで呼んでいる、曾祖母を見ていたのだ。

祖母があごをあげて大きく息をすう。

しかし吐かない。

母が「おばあちゃん!」と呼びかけると、思い出したように息をはく。

あまり呼びかけるとなかなか三途の川を渡れないので、呼ばないように看護婦から言われていたが、母もさすがに呼ばずにいられない。

祖父は始め、

「一緒に行くっていっただろう。」

「俺を連れていかないのか」

という声をかけていたが、最後には「まっすぐ逝けよ」と言ったという。

10時31分、永眠。

看護婦の話では最後、息は乱れたが、苦痛はなかったはずだという。母も(おばあちゃんは)最後は静かに逝ったと私に言った。


これが電話口で聞いた祖母の最後である。

人は死ぬとき、お花畑に立っていて、川の向こうに、先祖たちが笑顔で迎えに来ている。

川を渡ったら終わりだが、その瞬間まで、自分を呼ぶ声(看取る人が呼ぶ声)は聞こえている。

にわかに信じ難かった丹波哲郎の世界は、あながちウソではないかもしれないとその時思えた。

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